Monday Night
2019年末から2020年初にかけて行われる日本-パラオ親善ヨットレースに、JORA理事の児玉オーナーのThetis4(テティス4)とJORA協力艇でClass40のMonday Nightが参加されます。
下記動画はMonday Nightのレースに向けた準備動画です。
参照:https://gopro.com/v/o6mebwaPNKmpN
レーススタートは12月29日(日)横浜港からパラオ共和国までの約1620nm(3,000km)の距離を帆走ります。
両艇共に頑張ってください!!
日本-パラオ親善ヨットレース公式サイト
関連記事:シーサバイバル・トレーニングの話
皆さん、こんにちは。
過日9月14日〜16日の3日間、北九州市戸畑地区にあるNippon Survival Training Center (以下NSTC)にて行われたシーサバイバル・トレーニングの様子が届きました。
JORA理事である児玉氏によるレポートをお楽しみください。
文:児玉萬平氏
原健さんのブログ「海道をゆく3 」で触れられたワールドセーリング認定のシーサバイバルとメディカルの両トレーニングコースが、9月14日~16日、日本サバイバル・トレーニングセンター(NSTC、北九州市)に20名の参加者を集めて行われました。今回はその背景と様子をお伝えします。
日本サバイバル・トレーニングセンター
シーサバイバル・トレーニングとは・・
速やかな救助が期待できない海況や場所で極限状態に陥った艇の対処法や、艇から脱出した後、あるいは落水してしまったクルーが生き残るための手段を訓練するトレーニングで、長距離外洋レース(OSR:外洋特別規定のカテゴリー0,1,2のレース)の安全規定では、一定割合の乗員がシーサバイバルとメディカル(ファーストエイド)のワールドセーリング認定コースの修了資格を有していることが要求されています。
国内の代表的長距離レースである沖縄-東海レース、小笠原レースは何故か(規定が緩い)沿岸レース向けのOSRカテゴリー3で行われ、このトレーニングの義務付けが無いこともあって、正式なワールドセーリング認定コースは開催されてきませんでした。
そんな中で私のチーム「テティス4」は来年4月スタートのロレックス・チャイナシーレース2020(香港-マニラ565マイル、カテゴリー1)へのチャレンジを決め、その参加資格を得るため同トレーニングコースの受講の方策を検討していました。
ロレックス・チャイナシーレース
チャイナシーレースは1962年第1回が開催され、最近ではマキシ艇や大型トリマランなどの参加があり、ロレックスが冠スポンサーである外洋レガッタとしてメジャーなレースになっています。
日本艇は第1回から参加し、第3回の1966年には故渡辺修二氏率いる「ふじ」(渡辺43ft)が参加しましましたが、残念ながら微風の為フィニッシュ寸前にリタイヤしています。
我々はこの「ふじ(のちミスサンバード)」を譲って貰い、テティスⅡとして外洋レース活動を始めたこともあって、この艇のセールナンバー380を引き継ぎ現在に至っています。そんな縁もあって、渡辺修二氏のご子息で元葉山マリーナ専務であった康夫氏と「セールナンバー380を掲げて親父たちのリベンジ・・・をしよう!」という話になりチャイナシーレース2020への遠征計画となったものです。
サバイバル・トレーニングコース開催の道
チャイナシーレースのエントリーに必要なこのトレーニングコースをどうやって受講するか・・今までは海外のコースに入るか、海外からトレーナーを呼ぶか、という選択肢しかありませんでした。
一方で北田さんは、以前から海外レースでの活動を通じて、このトレーニングコースの必要性を痛烈に感じ、国内で継続的に開催する可能性を探っていました。そこで二年前の2017年7月、私がファストネットレースに同乗させていただくため「貴帆」のベース、ロリアンを訪れた際に、ヨーロッパで活動する大多数のレーサーがトレーニングを受講する訓練機関CEPS(Centre d’Étude et de Pratique de la Survie)の責任者ヤン氏を二人で訪問し、日本における同トレーニングコースの実現への協力依頼と継続的な実施開催に必要な条件について相談いたしました。
帰国後、ヤン氏のアドバイスをもとに国内でこのトレーニングを実施できる機関・施設を探そうと、海上保安庁を始め関係各所にヒアリングを行ったのですが、なかなか良い情報が得られない日々が続きました。
そんな中、本年に入ってCEPSのヤン氏から「日本にも我々と同様の訓練ができる機関がある、アクセスしてみたらどうか・・」という連絡が入り、早速、紹介された北九州にある日本サバイバルトレーニングセンター(NSTC:ニッスイマリン工業)を北田さんと訪問、訓練内容を見学させてもらいました。
その結果、北田さんをして「この施設と訓練の質ならCEPSに全くそん色ない」と言わしめ、このNSTCの施設を使用し同所スタッフに協力してもらうことを前提に、フランスからトレーナーを呼ぶことで、CEPSと同じワールドセーリングの認定コースを開催できると確信しました。
幸い、CEPS側もトレーナー派遣の協力を約束してくれ、9月14日~16日にサバイバルとメディカルの両トレーニングコースを、NSTCの協力のもとJORA主催で実施することになりました。
仏の訓練機関CEPSにまったく遜色のないNSTC
プロの船乗りにはSTCW 条約が定めたトレーニングコースを受講、資格取得の義務がある
不勉強なことに、フランス側から紹介されて初めてNSTC の存在と実力を知った我々ですが、NSTC は9 年前からSTCW (船員の訓練及び資格証明並びに当直の基準に関する国際条約)の認証を受けた訓練を実施、基本コースは5 日間、海外からの受講生も多いハイレベルなコースです。見学させて頂いたときは大型クルーズ船の女性クルーも受講生として参加し、プールに飛び込んでの実習訓練をしていました。
日本– パラオ親善ヨットレースもトレーニング修了資格が必要
チャイナシーレース2020に向け自艇のリグ変更、無線設備の追加などの準備をする間に、外洋三崎会長である「トレッキー」新田氏から、本年年末から来春にかけて行われる「日本-パラオ親善ヨットレース」の参加を打診されたので、行きがけの駄賃(の割には遠回り、かつ高額のエントリーフィーですが)のノリで参加を内諾しました。
このレースもカテゴリー1で行われるため、前述のサバイバル・トレーニングの履修が必要とされ、レース実行委員会はオーストラリアからトレーナーを招きサバイバル・トレーニングコースを開催、レース参加予定者に受講を呼びかけました。
一方、JORA主催のサバイバル・トレーニングコースはNSTCと協力しての継続的な国内トレーニングコースを準備評価するという目的を持つものとして企画したものなので、日本-パラオレースの実行委員会が主催するトレーニングコースとは別のものとして、予定通り進めることとしました。
ヨットに特化した本格的なファーストエイド
メディカル(ファーストエイド)・トレーニングもレース参加資格として必須のものです。国内レースでは日本赤十字社の救急法救急員資格を取得することで認められてきました。しかしそれはあくまで陸の救急法であって、救急車も来ない、AEDも無くはるか沖合にいるヨット上の救急法としては大きく疑問を感じるものでした。
今回はCEPSで行われている認定メディカルコースのチーフであるフランス人医師の監修を得ながらも、日本の医療事情に合わせたトレーニングの内容とすべく、その講師として、現役外科医であり、自らも前回のメルボルン-大阪ダブルハンドレースに自艇を回航、レースの往復航海を達成したJORA理事の森村氏に担当頂くことになりました。
メディカル(ファーストエイド)・トレーニングを担当した森村氏
サバイバル・トレーニングの様子
3日間にわたって行われた今回のトレーニングの参加者の顔ぶれは多士済々で、原健氏の他、太平洋横断経験者、沖縄・小笠原レースの常連艇メンバー、ソロ・ダブルハンドレースを目指す若者など20代から70一歩手前(私です)迄、一堂に会した合宿訓練でした。
前半2日間のフランス人トレーナー(Jean-Claude Guenneguez、 Luc Hubertのお二人)の説明やプレゼン資料は当然フランス語でしたが、ほぼ同時通訳に近い速度で、専門用語も難なく翻訳していくJORAスタッフ清水女史の通訳が秀逸、それもそのはず、彼女はロリアンでCEPSのコースを受ける日本人セーラーために幾度となくこのコースをカバーしています。
CEPSのフランス人トレーナーJean-Claude Guenneguez氏、 Luc Hubert氏と通訳の清水女史
コースには担当するトレーナーの経験や背景によって様々な追加情報が加えられますが、軍の航空救難隊に所属していたトレーナーからはレスキューする側の視点で多くの示唆を貰いました。
1日目のプールでのサバイバル術の実習、ヘリコプターからの吊り上げ、ライフラフト展開時の実際・・など、私の様な高齢者にはちょっときついメニューが揃っていましたが、2日目の消火活動、火工品の発火実習などと併せて、今までのナンチャッテ講習では気づかなかった得難い情報や気付きが数多くありました。
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また2日夕から3日目に行われたメディカル・トレーニングでは、担当する森村氏がCEPSのフランス人医師と講習前日までTV会議ですり合わせを行いながら、周到な準備を持ってコースに臨まれ、医療の基礎知識から艇に備えるべき薬品や道具、その使い方の実習まで、多岐にわたる内容でした。受講生の中には現役医師2名が参加しており、医師の皆さんによる経験談も加え、外洋ヨットに特化した実践的なファーストエイドに初めて触れた思いがしました。
トレーニングコースの今後
フランスではレースの参加資格としてばかりではなく、世界周航を計画するクルージングセーラー、漁船員など、自らの命を守るための基礎知識としてこのトレーニングコースを受講されると聞いています。今回自ら受講してみて、50年以上もヨットに乗っている者としては、あまりの知識と経験の浅さに情けない思いがしました。
資格取得の形ばかりのトレーニングではなく、繰り返しの訓練の中から本当のサバイバル能力が醸成されると感じました。
なんとか、国内でもこのトレーニングコースが継続実施できるよう、教材の日本語化も含め努力していきたいと思っています。
NSTC 責任者の言葉
訓練中の会話の中からも多くの啓示がありました。NSTCの実習では着衣での水中訓練もありますが、水中訓練時はほとんどサバイバルスーツを着込み、ライフジャケットも施設備え付けの物を使用、消火訓練も本格的な防火服を着るなど重装備での訓練を行っています、そこで理由を聞くと一言、
「訓練で万が一にも事故を起こしてはいけない。」
事故を絶対起こさない備えとして装備は毎回点検し完璧に保 っている、個人持ちの装備は管理しきれない。受講生の健康状態、体力も千差万別だ、受講生のチームごとにダイバー(水中サポートスタッフ)を複数配置し緊急事態に備えている。一旦事故を起したらこの事業は成り立たない。
プロトレーナーの矜持が見えた一言でした。
「訓練で万が一にも事故を起こしてはいけない。」プロトレーナーの矜持が見えた一言
遠路遥々ありがとうございました。
10月27日朝の9:30、舫いロープを解く瞬間、26年前のような開放感は訪れなかった……。
それは私の感情が鈍ってしまったからだろうか、それは年を重ねたということであろうか…。
手を振って送り出してくれる人たちに私も手を振りながら、まるでこれから先の4500マイルが45マイル先であるかのように不安も興奮も訪れなかった。やっとヨットレースができる喜びしかなかった。
スタート直前までVHF通信の通訳のために乗ってくれたジュリアンに「スタートまで3時間半もあるぜ…」と私が言ったところ、「あっという間だよ…」と彼が答えた。そうだよな……、ビッグレースの前はいくら時間があっても足りなく感じたはずだった。それが今はそう感じない。やはり私は良くも悪しくも慣れてしまったのか……。
スタートラインは変則的で、真ん中にコミッティボートである軍用艦が鎮座して、西側にIMOCA60とMULTI50のスタートライン、東側にCLASS40のスタートラインが設置され、同時にスタートするというものだった。
スタートの舵を任される
そして13:15、北東の順風でスタートのガンが鳴った。スタートの舵を任された私は潮の関係で岸寄りのスターボードエンドが有利と聞いていたから、空いているだろうと思われるコミッティボートの側からセイフティなスタートを試みた。そして余った時間をなんとか潰して、俗に言う”シモイチ”からジャストのスタートを切った。
暫くはトップ艇団を帆走っているかのように見えたが、左へ伸ばしながらしつこく付いてくる風上後方の数艇と一進一退を繰り返している間にタックして右へと戻る機会を失って、気がつけば早い段階で岸に寄せていたトップ艇団は遥か前方にいて大差がついていた。そして、10マイルほど先の最初のターニングマークである、風光明媚な石灰岩の岸壁が連なるエトラテ沖のブイを回る頃にはブービーの位置まで順位を下げていた……。
気を取り直してフルサイズのジェネカーを上げた頃にはバウの先に赤い夕焼け空が広がっていた。そして3時間ごとのウォッチが始まって、長い長いブラジルを目指す旅が始まったのだった。
しかし、そこからKIHOは快調に帆走り始めた。そして陽が落ちるまでに2艇に追いつき、徐々に順位を上げていった。最初のウェイポイントであるシェルブールがあるコタンタン半島をかわす頃から風が上がり始め、時折20ノットを超え始めた。そして、ブルターニュ半島先端沖にある航行禁止区域の北を回るか南を回るかという選択に迫られた。ポジションレポートでは先行する艇団はほとんど南側を通ってブルターニュ半島を最短コースで通るコースを引いていたため、とにかく必死にその先行集団に喰らいついていこうと我々も南のコースを選択して最初のジャイブを行った。
暫くすると風は次第に強まってきた。そして時折25ノットのTWSを表示するようになった。そこで、ワンサイズ小さい、35ノットぐらいまで対応可能なミディアムジェネカーにチェンジした。そしてメインにはワンポイントリーフが入り艇はより安定した。その後、予報通り風は北東から東に振れ始め、KIHOはますますスピードを上げていった。
ソロやダブルハンドのレースではフルクルーのレース以上に、スピードを追求すると同時にセイルを含めたハードウェアを破損というリスクから遠ざけなければならない。何故なら破損した場合の復旧にはとてつもない時間と労力がかかるからだ。ましてや、搭載出来るセイルが極端に少ないCLASS40においては、ダウンウィンドジェネカーはフルサイズとミディアムのたった2枚だけなのだ……。しかしそれがこのクラスを面白いものにしている要因でもある。セイリングスキルにプラスして使うセイルのマネージメントも大きな比重を占めるからだ。
私がウォッチオフとなって30分ほど経ってからであったか…。
夢うつつの耳にセイルのシバーリングする音が聴こえてきた。そして、「セイルが破けた!!…」という悪夢のような声がした……。
急いでデッキに上がると、ミディアムジェネカーは何箇所かに渡って裂けていた。私はすぐにバウに行って回収のためのスナッファラインを引いたところ運良く降りてきてくれた。しかし、セイルはタックとリーチと本体の3つに完全に引き裂かれており、かろうじてボルトロープだけで繋がっていた……。
なんとか回収を終えて、とりあえずソレント(フランスではヘッドステイで展開するフルサイズのジブセイルをこう呼ぶ)を展開してバウをウェイポイントに向けた頃には、風がコンスタントに30ノットを超え始めていた。もちろん艇速は激減したものの、前に振れ始めた風と激しく不規則な大波のために次のオプションであるフラクショナルのリーチングジェネカーへのチェンジは待つこととなった。
最初の夜が明ける
夜が明けてからも風の強さはアップダウンを繰り返しながらも東へ東へと回っていった。それに従ってメインは2ポイントリーフとなり、ボートスピードは少しづつ上がり始めた。そして午後になってその日最初のポジションレポートが入った。クラストップ艇との差は60マイルに広がっていた…。しかし、1艇がディスマストしてリタイアしておりKIHOの順位は20位に上がっていた。最初のターニングマークから6つ順位を上げていたということだ。
その後、北田スキッパーは破損したジェネカーのチェックにキャビンに降りた。暫くしてデッキに上がってきた時の顔には深い落胆と疲労がにじんでいた。彼によればジェネカーはほぼ修復不可能ということだった。
引き裂かれたミディアムジェネカー
アフリカ大陸に差し掛かって貿易風圏に入ってから強い貿易風を受けてダウンウィンドで大きくブラジルに向けて前進するというセオリーを考えれば、ミディアムジェネカーの損失は計り知れないほどの痛手だった。
「ロリアンに帰ろうと思う……何故ならミディアムなしでこのままレースを続ければタイムリミットにかかってしまうからだ……」
一瞬耳を疑ったが、それは冗談でもなんでもなく、まるで棋士が長考の後に指した一手のように真剣だったのだ。
「私はあなたの決定に従います」私はそう答えるだけだった。
栄光を得ればそれは全てスキッパーのものとなるのと同時に、全ての責任とリスクを背負わされているのもスキッパーである。だからこそ、海の上において、ヨットの上においてはスキッパーの権限は全てを凌駕して、彼の言葉は最も重いものであり、最後のものであるのだ……。
風は25ノットほどに落ちていたものの、降りしきるブルターニュらしい小粒の雨の中新しいウェイポイントであるヘディング110度のロリアンに向けようとすると、風が許さなかった。何故なら、TWDを見れば110度と表示されていたのだった……。
それから長い長い30時間が始まった。容赦のないビスケー湾の悪波の中を上り続けタックを繰り返した。身も心もクタクタになった頃、嘘のように風が落ちて波も消えていた……。そして右手前方に、淡い灯台の光が新月の闇夜に浮かびはじめた。徐々にその光力を増してくると、4回のフラッシュだった。ロリアン沖にあるグロア島の灯台だ。どんどん近づいていくと森の匂いがしてきた。陸の生命の匂いである。いつもの帰還であれば最も安心と歓びを与えてくれる匂いである……。そして右に緑左に赤の航路ブイを進んでいくと、LA BASEのドックが見えてきた。しかしその夜、私の目にはそのドックが黄泉の国にあるであろう神殿に見えたのだった……。
黄泉の国の神殿に見えた
ホームポートに戻った貴帆
陸に戻って2日目の午後にロリアンの桟橋で、KIHO以外にリタイアした数艇のスキッパーたちと会って言葉を交わした。キールを損傷し、肩を脱臼し、マストを失い、航海計器を全損し……無念の帰還をしたはずの彼らの顔には暗い影が落ちていたものの確かな光も差していた。もちろん、その後姿には悔しさがあり、背負っていた荷の重さは感じたものの、皆の目は次を見据えているのだ。彼らにとってのTransat Jacques Vabre 2019は終わりを告げたのだが、大西洋へ、そして南氷洋への挑戦という夢と希望は決して終わらないのだ。
スタートする前よりも少しだけ彼らを身近に感じながら、私の中で何か、言葉にも形にもできない何か、が生まれてきていた……。
11月1日の今夜、久しぶりに1人で前にも何度か行ったことのあるロリアンのバーへ向かった。スタート1週間前から禁酒して臨み、ロリアン帰港後は飲む気にもならなかったビールが身に染み入った……。
ビールが身に染み入った……
考えれてみれば、もし私が向島の店を続けていたら今日で3周年となっていた。運命の悪戯とは予測不可能だ。1年前、まさか今夜このバーで飲んでいるなど夢にも思わなかった。だからこそ人生とは面白いのだが……。
今ごろ、大西洋上で貿易風圏に入って快調なダウンウィンドを帆走り始めたであろう参加艇スキッパーたちの顔を思い浮かべ健闘と安全な航海を祈りながら、あまりに早く陸に戻ってきて風来者に戻ってしまった自分を揶揄いながら、そして短い期間ながら気のおけない友人となったパトリツィアとジュリアンとの出会いに感謝しながら、最後に飲んだアルマニャックから出てきた酒の精と話をしている。今夜の話は尽きなくなりそうだ……。
アルマニャックの精と話をする
呂律が回らなくなる前に、この言葉の旅を終わりにしよう……。
でも……、私の旅はまだまだこれから先も続いてゆく。
追伸
結果的には、お互いに不完全燃焼で不本意なものとなった今回の挑戦ではあったけれど、この素晴らしいヨットレースという冒険と、それに関わる多くの魅力的な人々に会わせてくれた北田氏に感謝をいたします。ありがとうございました……。
2019.11.1. Smart Apart au Rorient 於
TAKESHI HARA
原健(はら たけし)
この度、Transat Jacques Vabre 2019(フランス〜ブラジル4500マイルをダブルハンド)に北田氏とダブルハンドで参戦することが決まりました。これを機に「はらたけしの…..海道をゆく」と題してコラムを連載しております。ぜひお楽しみ下さい。
「はらたけしの……海道をゆく 」
先週末、参加スキッパーへのウェルカムディナーが開催された。そこにはコ・スキッパーと呼んでいただける私も含まれていたのでご相伴にあずかった。会場であるル・アーブル市庁舎を目指してグーグルに連れていってもらうと建物の正面には立派な文字で「HOTEL DE VILLE」と書いてあった。
「HOTEL DE VILLE」と書かれた市庁舎
しかしそこは間違いなくホテルではなく市庁舎だったのだ。香港で⚪️⚪️飯店に飯食いにいったらホテルだった、のと逆の知らなかった常識といったところか……。
まあ、入ってみると階段にはレッドカーペットが敷き詰められていて立派な建物だったが、私を含めて招待客は皆ジーパンにチームジャケットを辛うじて羽織った潮くさい連中であることは言うまでもない……。
なんとなくシャンパンを飲み始めなんとなくテーブルについてフルコースの食事が始まると、いかにもという風情の市長さんとスポンサーのエライ人から簡単な挨拶があって、食べ終わった人からじゃあね、という感じで皆帰っていった……。
その食事のテーブルは何も指定がなかったから早めに着いた私たちが適当に座っていると、比較的小綺麗なチームシャツを着て上品で控え目な笑顔を湛えた二人が同じテーブルの席に着いた。
パトリツィアの通訳と、お互いのカタコトした英語で会話を進めていくと、彼らは私たちと同じClass40にエントリーしている「A CHACUM SON EVEREST 」のメンバーで他の多くの参加艇が大小様々なスポンサーを抱えてプロフェッショナルとして参加している中、珍しいアマチュアセイラーということだった。
それも2人は兄弟で、兄であるスキッパーのイヴはコマーシャルディレクター、コ・スキッパー弟のルノーは弁護士で、このレースのために2年間準備をして、約ひと月の休暇を取って、自腹でClass40をチャーターしての参加ということだ。10月1日から禁酒までしているという……。
YVES(正面中央)とRENAUDのCOURBON兄弟
それに2人はライフワークとして癌を患った子供たちが回復できた時に、モン・ブランで有名なシャモニーの山々を登ってもらおう、というキャンペーンを展開しているという。
艇名の「A CHACUM SON EVEREST 」というのは「それぞれのエベレストに… 」という意味で、その子供たちを勇気付ける意味を込めている。そして「今、オレたちにとってのエベレストは勿論ジャックヴァーヴルだよね! 」と2人は顔を向き合って笑った。その笑顔は心の底から人生を、ヨットを、楽しんでいる人の美しいものだった……。
A CHACUM SON EVEREST
3月の終わりにこのレースに出たいと思い始めて早くも半年。もう明日にはスタート海面に出ようとしている。
何故わたしは自分の店を畳んでまでこのレースに出たいと思ったのだろうか……。
それはやはり、新しいことに魅力を感じたからであるな。それは2人乗りのレースということだ。
2という数字は大変微妙である。ひとりとは大違いだ。困難に直面した時の心強さは倍増するだろう。しかし同時に複数の始まり、コミュニケーションの始まり、揉め事の始まりでもある…。結婚したことのある人なら頷いてくれるだろうか…。
フルクルーでのヨットレースが全てであった私にとっては、その心地よさと同時に難しさも経験してきたので、ソロ以外の最小人数であるこのダブルハンドレースに強い魅力を感じたのである。簡単に言えば、人付き合いが苦手な私にとって、丁度いいレースなんではないかと……。必要な時は2人で力を合わせ、それ以外はほとんど一人の時間を海の上で、ヨットの上で満喫しながらレースが出来る、そんないい話はない、と思ったわけである。
ましてや相方はヨットのオーナーで自艇を知り尽くし、大西洋の海を2度ソロのレースで渡っているセイラーである。 我々の仕事の分担は明確である。基本的に3時間ずつの操船とウォッチでオンとオフを繰り返すことの他に、何か問題が生じたり整備が必要な場合は私は主にデッキから上……つまりバウの先端からマストトップまで、北田スキッパーはデッキから下……ナビゲーションからエンジンその他諸々、船底に至るまでを担当する。
食事は完全に各自で自由に、というスタイルで全てフリーズドライだ。食事に必要なものはガスボンベとナベが一体化している湯沸かし機材ひとつである。それがジンバルに乗っかっていていつもゆらゆらしている。フランス製のフリーズドライは塩分控えめで栄養バランスよく出来ている。さすが、という味だ。そこにカップヌードル少々…。コーヒー、紅茶、お菓子が口直し程度。
貴帆の台所
それにしても、何につけても、準備するのが2人分だけでいいというのは楽なものである。そして何人にも決まり事を念押しすることがない。しかし、ソロでのレースが主だった北田スキッパーにとっては2人分というのがとても多く感じているようだが……。
余談であるが、Class40の参加メンバーを調べたところ、やはり2人合わせての最高齢は我らが「貴帆」チームの111歳あることが判明した!
第2位は「TERRE EXOTIQUE 」の109歳、ちなみに「A CHACUM SON EVEREST」はイヴが52歳、ルノーが46歳で98歳の若僧である。
また、最年少はポンツーンで隣に停まっていた「E.LECLERC 」で20歳と21歳の若者で41歳!そいつら毎日可愛い彼女を連れてきていたな……。
最年長と最年少のショット
そしてなんと、個人では62歳が最高齢で、次いで60歳がいて、56歳の私が3番目に年寄りであることも明るみに出た……。
これは何も歳でエクスキューズを匂わしているのではなく、これだけ広い年齢層のセイラーが、夢を抱いて長いこと準備してエネルギーを費やすだけのレースであることを紹介したいからである。
やはりヨーロッパ人にとってはコロンブスの時代以来、まずは西へ向かって”大西洋を横断する “ということ、それは未知への好奇心と野心を焚きつけて止まない、何ものにも代えがたい誘惑的な魅力を持っているに違いない。
スタート前日、晴れて最多の人出…
スタッフの友人家族と…
スタートまで24時間を切って、ああでもない、こうでもない、といつものようにこの4、5日に渡って囁かれていた天気予報が絞り込まれてきたようだ。ヨーロッパ大陸の北にいる高気圧が頑張って、大西洋にいる大きくて凶暴な低気圧に待ったをかけてくれているおかげで、スタートは珍しく北東のいい風でダウンウィンドになりそうだ。
ブルターニュ半島を超えたらすぐにジャイブしてリーチングとなり東から南と前に振れていく風の中をなるべく早く難所であるビスケー湾を一気に抜けて貿易風が待つジブラルタル海峡の南へと出たいものである。まあ、そう上手くはいかないが……。
前日のウェザーブリーフィング
明日、10月27日は私にとって新しい挑戦の船出である。船出は未知の誕生であり祝いでもある。もちろんレースであるけれど、その前に自分との問答でもある。楽をしたい、妥協したい、怖い、眠い、痛い、寒い、暑い…こととの闘いでもある。
そして母なる海は油断や奢りや虚栄を見逃さない、許さない。しかし、陸の上では決して味わうことのできない類の生を実感させてくれる。一期一会の刹那の連続が待っている。
26年ぶりに、今の私にとっての”エベレスト登山”が始まる。 楽しいことがいつか終わるように、辛いこともいつかは終わる。終わらないのは終わること……。 それではみなさん、いってきます。 次はブラジルから……フランスから……日本から……どこになるか、いつになるかわからないけれど、またお便りいたします。
Ready to go !
2019.10.26. Au restaurant de l’hôtel Mercure 於
TAKESHI HARA
原健(はら たけし)
この度、Transat Jacques Vabre 2019(フランス〜ブラジル4500マイルをダブルハンド)に北田氏とダブルハンドで参戦することが決まりました。これを機に「はらたけしの…..海道をゆく」と題してコラムを連載しております。ぜひお楽しみ下さい。
「はらたけしの……海道をゆく 」
もの知りな”テクニシャン”ジュリアン
“テクニシャン”のジュリアンは、なかなかのもの知りである。ヨットのことは別にしても、映画や料理やアートや音楽だけでなく、様々な国の文化や人間像について浅くない知識や見解を持っている。
中東で生まれて色々な国に行ったり仕事をしたりしたからだけでなく、祖父がイタリアのカプリ島近くの小さな島出身で祖母がルクセンブルクというアルプスの小国出身というルーツも少なからず関係しているように思われる。
そこに、言語学者にして翻訳家で5ヶ国語を自由に操るパトリツィアが加わると、英語、フランス語、イタリア語、日本語が飛び交いながら昼飯時やコーヒータイムはあっという間に過ぎてゆくのである。
そんなジュリアンの解説によれば、ブルターニュの人々のルーツはブリトン人…つまりグレートブリテンから渡ってきた人々なので、独立したひとつの国という意識がフランスの中で特に強いという。
スペインで言うならバスクやカタルーニャの感覚に近いらしい。16世紀、フランス王国とブルターニュ公国の平和維持のために政略結婚をしてフランス王妃となったアンヌ・ド・ブルターニュとその娘でやはりフランス王妃となるクロードのおかげでブルターニュの名物である海水から製造される塩に対して税を撤廃させたという歴史があり、そのため今でもブルターニュ産の塩は世界に広く知られているのだという……。
確かにロリアンのレストランで食べる料理は塩梅が良いし、バターが殊の外美味しく感じられる。また、日曜日には教会の鐘の音以外によく何処からかバグパイプの音色が聞こえてくるし、イギリス風のバーが少なくなくてビールを飲む人が多いし、雨はやたらと降るし……私が勝手にいだいていたフランス感を覆された。
10月13日、予定より早くロリアンに別れを告げてル・アーブルへと回航に出発した。目まぐるしく変わるブルターニュの天候の隙間をついて最も安全に、レースする海域をチェックしながら約300マイルを移動するピンポイントの出航だった。
長い時間をかけてたった一発の勝負に挑む場合、準備の後半は艇にダメージを与えないことが最重要課題となるからだ。それは老いた二人の乗組員にも同じことが言えるのであるが……。
ほぼ2日間の回航はとても盛りだくさんだった。ブルターニュ特有の霧雨が降りしきる中でのスタートから、ブレスト沖に到達すると次第に天候が回復して日没の頃には水平線間際の雲に大きな裂傷が出来て、私の記憶の中でも10本の指に入る美しい夕焼けに出逢うことができた。
美しい夕焼けに出逢う
おまけにイルカが3家族ぐらい現れて、まるで私たちをエスコートしてくれるように翌朝近くのまで7時間にわたって戯れていた。
ブルターニュ半島の北側に回りこむと風が落ちて機走となったが、世界で最も潮流の強く干満差が最大で12mもあるという英仏海峡に入った。そして次のウェイポイントであるコタンタン半島を目指してノルマンディ諸島に差し掛かるころには向い潮が7ノットを超えた!しかし運良く南西の追い風が強まって辛うじて前へと進み続けた。11ノットのボートスピードが出ていても対地速度が3ノットしか出ていないというのはなかなか味わえない。潮で艇体が押し戻されているのが体感できて、改めてこの6時間毎に展開される天国と地獄、飴と鞭、上り坂と下り坂をどう読み切ってセイリングするか、この海域の難しさを痛感したのだった。
しかし、雨が降ったり止んだりを繰り返していた灰色の空が、強まってきた南西の風の力で吹き飛ばされて、夜になると満月が現れ、北の空の常連である北斗七星とオリオン座の挨拶を受けて、おまけに緑色の鮮やかな閃光を放ちながら落下する巨大な箒星にまでお目にかかった……。
そして明け方シェルブール沖を通りかかり、若かりし日のカトリーヌ・ド・ヌーブを思い出し、俯瞰のカメラに映る雨傘たちが動くオープニングのメロディを鼻歌しながらなんとなく納得出来た……シェルブールには雨傘が必要なんだと……。
お昼過ぎにル・アーブルのマリーナに無事着岸した。そしてボス北田が大切に保管しておいた「山崎」のボトルが開き、ひっそりと二人で乾杯をして杯を傾けた。また一歩レースのスタートに近づいたわけであるから……。
その後、日が暮れてから、私にとって人生初の水門「ロック」を通ってレースヴィレッジに入港した。
その舞台はイベント会場としてパリのレセプション同様に手慣れた人々によってで用意され、”する人”と”観る人”と”お金を出す人”と”応援する人”が皆、満足出来るような環境が創り上げられようとしていた。しかし……当たり前のことだけど……我々二人を含めて全ての”する人”側の本当のイベント会場は海にある。
きっとこれから残りの数日間は、早くこのお祭り騒ぎを終えて海に出たいという願望を込めたカウントダウンになってくるはずだ。そして、26年前のウィットブレッドのスタートでサウスハンプトンの港を出る時もそうだったように、舫いロープを解く瞬間には心地の良い開放感に包まれることだろうか……。
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今日ヴィレッジオープンから2日が過ぎた週末、会場はものすごい人出でごった返していた。一昨日から猛烈に吹き続いていた50ノットを超えるゲールがやっと収まった夕方、部屋の窓から見える西の空には再び見惚れるような夕焼けが広がっていた。
さあ……、下北半島と会津盆地からやってきた”オヤジ”と呼ばれる微妙な年頃の男二人による赤道越えの大西洋横断という冒険へのスタートはもうすぐである……。
“オヤジ”と呼ばれる微妙な年頃の男二人
2019.10.19. Hotel Mercure au Le Havre 於
TAKESHI HARA
原健(はら たけし) この度、Transat Jacques Vabre 2019(フランス〜ブラジル4500マイルをダブルハンド)に北田氏とダブルハンドで参戦することが決まりました。これを機に「はらたけしの…..海道をゆく」と題してコラムを連載しております。ぜひお楽しみ下さい。
「はらたけしの……海道をゆく 」
ヘミングウェイが通い、その作中にも登場した「Cafe IRUÑA」
以前、何かで読んだか誰かから聞いたか忘れたが、B級と呼ばれたり2流と呼ばれる文学作品ほど舞台となった土地の文化や伝統や時代の現実を伝えているものだ、という言葉を聞いてなるほどな、と膝を打った。
その時代、その土地でしかわからない特殊性がそういう呼び名を生む理由なのだろう。あまり好きではない言葉だが”B級グルメ”や”B級映画”にも通じる感覚ではないか…。マニアにはウケるが万人の認めるところでないもの……。逆を言えば、名作と呼ばれる作品は時代や土地の文化に関係なく、所謂”普遍性”があるために、いつ誰がどこで何語で読んでも、なるほど!……私と同じ!……という感覚に落ちるわけである。
私にも、私が思う…と思っているが実は他の多くの人にとっても…名作があり何年にも渡って何度も読み返す本がある。大抵は表紙などは何処かにいっていしまい、ヨレヨレで赤茶けてしまっているが、何度引っ越しても捨てられない。
その中の一冊にヘミングウェイの処女長編「日はまた昇る 」がある。まだ20代半ばの彼がパリで新聞記者をしながら短編を書き始めていた頃に、実際の体験をもとに書かれた小説である。
その舞台はパリからボルドーを経由してフレンチバスクのバイヨンヌからスペイン国境を抜けてパンプローナの”牛追い祭り”の期間を中心に描かれている。
勿論、誰もが知る名作の内容をここで私の陳腐な言葉で披露する必要はないので止めておくが、私はいつかこの舞台となった地を旅してみたいと願っていた。
そして今回、パリでT.J.V.のオープニングレセプションの後、準備が始まるまでの期間が10日間空いたので、その願いが叶ったのだ!なにしろ舞台はロリアンの南でそんなに遠くないのだから……。
バスと電車で巡った旅は、美しいバスク地方の自然と美味しいピンチョスと古くて静かな街並みの連続だった。100年前にヘミングウェイが辿ったと思われる場所がほぼそのままの形で残っているというのは、やはり石で出来た街や建造物の懐の深さを感じ、ひとりで嬉々としウットリしほくそ笑んだ…。
フィエスタの時期ではなかったので追体験とまではいかなかったが、その代わりに念願だったリーガエスパニョーラを観戦できたりして(アトレティコ・ビルバオVSアラベスのバスクダービーと乾が出場したエイバルVSセビージャ‼️)、ヘミングウェイが当時感じたスペイン人の”アフィシオン”の欠片を私も感じることができた。このような突発的で無計画な旅が時として出来ることも、私にとっては海外のヨットレースを楽しむ中の大切な要素なのである。
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9月28日にロリアンに戻って、本格的に準備が始まった。
La Baseの貴帆
ロリアンという港街は静かな場所である。第2次世界大戦でドイツ軍に占領されて潜水艦の造船所となったドックが今も残るその場所が「La Base」と呼ばれ、ラ・トリニテ・シュメールと並んでフランス外洋ヨット、それもソロやダブルハンドに特化したヨットの聖地となっている。大戦末期にはロリアン奪還のための連合国軍の集中爆撃で街はほぼ壊滅したのだが、ドイツ軍が作ったこの造船所だけは後世の記憶のために残されたという。今では国内外から多くの観光客が訪れる。
ドックの大きな壁にはフランス外洋ヨットの新旧2大レジェンド、エリック・タバリーとフランク・カマの肖像画が数え切れないセイラーたちのモンタージュアートで描かれている。また岸壁にはこれまで偉業を成し遂げた外洋レースのレジェンドたちの写真も飾られており、ポンツーンを見渡せば、Mini 6.5 、Figaro 、Class 40、IMOCA60、そして巨大なマルチハルにいたるまで、当たり前のように舫われている。そんな、日本人から見れば非日常が日常となっている”La Base” に私の目もだいぶ慣れてきた。
さて……、では我々のチーム「貴帆」のメンバーを少し紹介してみよう。
まずはスキッパーであり、チームのボスである青森県出身の実業家、言わずと知れた北田浩である。「お前が好きだと、耳元で言った……」あのヒロシではない。5年という短い期間で、フランスの外洋シングルハンドレースの世界に単身飛び込んで道を切り開いてきた、ツワモノのヒロシである。
その彼と現在のClass 40 「貴帆」が造船中にフランスで知り合い、以来彼と2人3脚で歩んできたスーパーな通訳であり秘書でもあるパトリツィア ・ゾッティはイタリアのアドリア海に面した港街レッチェ出身の女性である。彼女はイタリア語の他に英語、日本語、フランス語、スペイン語を駆使する言語学者でもある。日本の奈良県の大学にも留学、勤務した経験を持つ通訳を通り越したマルチ言語オペレーターである。彼女自身もセイラーであるが、夫リッカルドはイタリアの外洋ヨットのトップレーサーというあまりに出来すぎたスタッフなのだ。
こちらでは”テクニシャン”と呼ばれるボートの管理責任者であるもう一人のスタッフはフランス人のジュリアン・ ルブラノ ラヴァデラ(Julien Lubrano Lavadera)である。彼は中東アジアの UAEで10歳まで生まれ育った。その後各国を放浪したりタイの造船所で働いたりした経験を持ち、日本の合気道を習い、クロサワ映画を愛し、タイの前国王を尊敬するという物静かな男で、ヒッピーの香りがプンプンする。英語が話せる彼と初対面の時、「俺の本名はタケシというんだが、ケンの方が覚えやすいよね?」と言ったら「いやいや、ムシューキタノと同じだからタケシでいいじゃん」という彼の一言で私の呼び名は本来の名前 ハラ タケシに30年ぶりに戻ったのである……。
そしてもう一人、現在……日本においては住所不定無職のハラタケシこと私である。そして今、「貴帆」のコ・スキッパー兼人足として歳も外聞も忘れて、大西洋横断レースに頭を支配されている次第である……。
スキッパーでチームのボス、北田浩
スーパーなパトリッツィア・ゾッティ
”テクニシャン”ジュリアン・ ルブラノ ラヴァデラ
コ・スキッパー兼人足、ハラタケシ
あと一週間ほどのテストセイリングとレース準備が済めば、スタートの地、ル・アーブルへ「貴帆」を回航する。18日からル・アーブルではレースヴィレッジが開いて10日間に渡って10万人近い人々が訪れるという……。
季節は秋が進んで、北風は一段寒さのスロットルを上げた。風の密度も増してきている。そして台風並みの低気圧が5日に一度の割合でブルターニュ半島をかすめてゆく……。
カウントダウンの時計の音が心なしか大きくなってきているようだ……。
貴帆のスキッパーとコ・スキッパー
日本人二人フランスからブラジルへ
2019.10.5. Appartements à Lorient. 於
TAKESHI HARA
原健(はら たけし)
この度、Transat Jacques Vabre 2019(フランス〜ブラジル4500マイルをダブルハンド)に北田氏とダブルハンドで参戦することが決まりました。これを機に「はらたけしの…..海道をゆく」と題してコラムを連載しております。ぜひお楽しみ下さい。
「はらたけしの……海道をゆく 」